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野球がつないだ、三陽山長 猿渡さんの青春ドラマ Vol.2

野球がつないだ、三陽山長 猿渡さんの青春ドラマ Vol.2
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百靴争鳴。日夜美しい靴作りに情熱を燃やし合う、異色の靴職人たちへのインタビュー集。
猿渡さんは甲子園まであと一歩の高校球児でした。
真っ白に燃え尽きた猿渡さんはしかし、野球に導かれるように三陽商会に入社します――

フレッドジュエリースーパーコピー甲子園を目指した野球少年だった
やんちゃだったわたしは中学を卒業したら働こうと思っていました。ところが兄にいわれました。せめて高校くらいは出ておけって。

兄は母校に直談判してくれました。特待生の枠に潜り込ませようとしたんです。奇跡的に野球の枠が残っていて、いわれるがままに受けたら見事合格しました。

中学は野球部ではありません。バッティングはいまいちだったと思うんですが、基礎体力があったんでしょうね。100メートル走や遠投で認められました。

父が子どものころからいろいろやらせてくれました。4歳で水泳を始めて、サッカーやラグビーもかじりました。野球もそのひとつでした。

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部員が100人をくだらない野球部にもかかわらず、高一の秋にはベンチ入りを果たしました。根っからの負けず嫌いなんです。やるからにはレギュラーになる。誰よりもはやく学校へいって人の倍以上、練習しました。血尿が出たときにはさすがに驚きましたね。

守備はキャッチャー。これが面白かった。配球を考え、野手を動かす。ゲームをつくる面白さがありました。

高校時代は野球漬けの毎日です。目標はもちろん、甲子園。春に(地区大会の)ベスト4に食い込んだわたしたちは最後の夏を晴れ舞台にすべく最後の追い込みをかけました。結果は、ベスト16。


正真正銘、燃え尽きました。1週間は家に篭っていたし、なぜか当時付き合っていた彼女とも別れました(笑)。

出身校ですか。日体大荏原です。そうです。今年の東東京大会で決勝まで進んだあの高校です。

三陽山長に必要なふたつの素養が身についた
いま考えれば、このときの経験はふたつ、いまに生きています。

ひとつはキャッチャーとしてチームを差配するスキル。職人と膝を突き合わせてつくりあげていく靴づくりにはキャッチャーに通じるしたたかさが求められます。

もうひとつは道具を手入れするということ。わたしはミットもスパイクもいつもピカピカにしていました。怪我を防ぐためには道具が大切です。スパイクの減りがはやくないか、どこかほつれていないか。点検ついでの手入れは日課になりました。キャッチャーミットは綿を抜くと音が変わると聞いて試しにやってみたら元に戻せなくて往生しました(笑)。

ふたつ上の先輩が手入れに熱心な人でした。先輩は朝はやくからいつだってグローブを磨いていました。その姿をみて真似するようになったんです。


革靴は磨いてなんぼです。三陽山長に携わる人間としての素養はすでに身についていました。

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野球部を退部し、いよいよファッションの世界へ
野球に見切りをつけたわたしは、大学などからも誘いがありましたが、ことごとく断りました。


三陽商会の社会人野球のチームに入ったのは、軟式だからそこまで本気にならなくて済むと考えたからでした。先輩も何人か所属していましたしね。

チームには失礼な話ですが、どこか身が入っていなかったんでしょう。入社1週間前に原チャリで事故を起こして半年、ギプス生活を送りました。24(歳)の年にふたたび怪我をして野球人生はあっけなく終わりました。

退部後はメンズウェアの営業に配属されました。野球バカを地でいくわたしはことあるごとに上司に盾突きました。とりわけそのものづくりについて。それは営業目線というんだとあしらわれてもひるまなかった。手を焼いた上司はわたしを企画部に放り込みました。そこまでいうならやってみろってわけです。放り込まれて、自分の未熟さをいやというほど知りました。


野球バカではありましたが、ファッションにもそれなりに親しんできました。父がデニムにアイロンをかける人だったんです。子どものころは父のハーレーダヴィッドソンのケツにまたがって米軍基地へいったものです。ふたりで軍の放出品を漁りました。

スーパーコピーブランド専門店とはいえ、周りはファッション偏差値が高い人ばかりです。この時期、人知れぬ苦労をしましたね。いまも癒えていないので、このころのエピソードは勘弁してください(笑)。

第3回へ、つづく


猿渡伸平(えんどしんぺい)
1970年神奈川県横浜市生まれ。日体大荏原高校卒業後、三陽商会の野球部に所属。引退後、営業、企画を経て三陽山長の創立メンバーに。現在は三陽山長を含むオウンブランドの責任者として活躍する。

【問い合わせ】
三陽山長
http://www.sanyoyamacho.com

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